昭和47年12月31日 除夜祭
中村良一
いよいよ、本年もあと、数時間で終わろうと致しております。今晩の、お祭りが、いよいよ、来る新しいお年に、いよいよ、おかげの年でありますように、改まった心で、また、新しい年を踏み出すことが出来ることのためにも、本年一年の、いわば、締めくくりというか、そういう御礼、同時に、お詫びというお祭りでございました。お礼を申し上げても、申し上げても足りない御礼、お詫びを申し上げても、申し上げても足りない御詫び、そのお詫びを、心の底からさしてもらい。そのお礼を、心から、させていただいておりますと、いうなら、心から、信心を頂いておる者の、有り難さというものを、つくづく、感じさせて頂くのでございます。
久留米の初代、石橋松次郎先生が、ある元旦の(年に、?)御直会を頂きになられ、お神酒を頂かれながら、ふっと、心に感じられた。それは、色々な御用やら、色んな事で、沢山の入費がかかって、そして、その当時の金としては、莫大な金でございましょうね。八千円と言う金額、借入金が。もう、来る年も来る年も、やはり、利払いばかりで、過ぎておった。で、石橋先生、その、その杯を掲げながら感じられた、ね。はぁ、今年もまた、利払いで、一年間、一生懸命働かんならんというふうな事を感じられた。そしたらね、それこそ、幽明から、四神様のお声でね。八百俵の徳を授けるというお声を頂かれたと言う。ね。はぁ、今のは、まさしく、四神金光様のお声であったと。とりわけ、四神金光様のご寵愛を受けられた、桂先生のご信心、同時にまた、石橋先生でございますから。もう、それこそ、まぁ、有難く思われたことでございましょう。そして、よし、神様が、その気で下さるなら、一つそれを頂き漏らしてはならぬ。本気で頂こうというので、四神様のお徳を、九州中の出社教会がございますから、九州国らの関係の、に、説いて回られたと。これは、四神様のお徳を説いて回られたということだけではなかろう。
例えば、そのように、話は残っておりますけれども、恐らく、私は思うです。ね。先生でも、いわば、はぁ、ここをこう改まったら、ここをこう踏ん切りをつけたなら、おかげがいただけることは分かってるけれども、出来なかったといったようなお事柄があったのではなかろうか。勿論、形の上においては、よし、神様が、お働き下さるなら、ね。それを、せっかく、神様が下さると仰るのだから。それを、こちらが、よろよろとして、ね。それを、受け漏らす、受け落とすようなことがあってはならんと、いわゆる、頑張られた、形の上に。勿論、心の上にも、お改まりに改まっての、ご信心ご修行がお出来になったんだろうと思います。もうそれは、手の平を返すようなことであった。永年の間、それこそ、利払いばかりであったという、その、久留米の教会に、その当時、久留米の大きな商社、まぁ、例えて申しますと。久留米の徳永さん、それから国武、ね。国武工場の、と言った様な、大きい大商人がです。もう、その年に、ご信者になられたという事でございました。もう、それは、どうにも出来なかった、いわば、八千円の借金払いがね、一年足らずして、元利共に払うことが出来たという事です。ね。神様の、いよいよ、ご発動と言うものをね。受けていただいていったら、そうなんです。神様がご発動まします。ね。そこには、形の上のことにもでしょう、ね。形の上のことにも、よし、神様が下さるならと、言うなら、四神様のお徳を説いて廻られた。勿論、ここんところは、知るよしもないのでございますけれども、まぁ、推察申し上げさせてもらうのにです。もう、恐らくは、心の上にも、お改まりに改まられたことであろうと思うのです。
八百俵の徳。八百票をやるとか、八千円、おかげをやるとかと仰るのじゃない。八百俵の徳を授けると仰せられた。ね。当時、お米が、一俵十円だったそうですから。ね。ちょうど、その八百俵といや、八千円にあたる。その八千円の借金払いが出来たというだけでは無くて、その八千円の、言うならば、八百俵のお徳が、今日、久留米の関係の教会が、おかげを頂いておるところの、もう、原動力とも、源ともなっておるわけですから。私共も、その、いわば、ヒレイに浴しておるわけなんです、ね。その、徳を受けるということが素晴らしい事です。
私は、今、合楽でです。そういう神様のね、お声を聞いた思いで、皆さんが、おかげを頂かれるならです。もう、それこそ、一年間で、ね。どうにも出来なかった借金払いが、一年を経たずして、頂けたという様な働きになってくるもんだと、私は思う。ね。最近、ここで言われております、いわゆる、五つの願いと言うことに、お互いが、本気で、奮い立たせていただいて、本気で、家族勢を揃えて、本気で、お日参り的信心のおかげを頂こう。よし、神様が、下さるというのであるからね、頂こうという気にならなければ駄目なんです。これはもう、ここの教会のことで、本当に、それを感じております。もう、色々な意味で。はぁ、これが、もっともっと、勢が揃うたら、こら素晴らしいことになるだろうなと、今、私は感じております。ね。合楽教会内の者は、みんなそれを感じておるだろうと思います。ね。
ですから、ご信者の皆さんでもです。ね。これを、私ひとりの願いでなし、一家の願いでなし、教会内だけの願いでなし、ね。合楽の信奉者が、こぞってです。ね。その気になって、私は、おかげを頂かせて貰うということになれば、ね。しかも、その事がです。もう、それこそ、咬んで含めるように、最近は頂いております、ね。この願いそのものが、神の願いであり、また、私共、信奉者としては、いや、人間としてはです。もう、止むに止まれぬ心の叫びのような願いなのである。健康でありたい。家庭が円満でありたい。子孫繁盛、家繁盛でありたい。ね。ただね、健康である、今、現在あるとか。今、商売が繁盛しておるとか。現在は健康であるとかと言うものじゃないのですよ。ね。いわゆる、八百俵の徳を授けると仰ったがです。健康の徳を、ね。家庭円満の、いわば、家に徳を。子孫繁盛、家繁盛のおかげの、いうならば、お徳をです。ね。私共が、頂きとめさせて頂けれる、もうこよないチャンスだと思うのです。ね。そういう、私共、切実な願いをです。いわゆる、あとの二つの願いであるところの、真実の願いをです、ね。いわゆる、真実の御用が、ね。出来ますことのために。神願成就のおかげを頂きます。その手にも足にもならせて頂くことのために、この三つが願われるという。ね。
段々、この願いがなされておられる。けども、御理解を頂くたんべんに、気付かされて頂かれておられる、皆さんの信心を思う時にです。なるほど、ね。どうぞ、健康のおかげを、家庭円満のおかげを、そしてまたは、子孫繁盛家繁盛のおかげをと、願っておられるけれどもです。どうぞ、真実の願いが出来ることのための、ね。神願成就のことのための御用奉仕。言うならば、お役に立ちたい、立ちたいの一念が、この願いになってまいりますようなです、ことになっていない事に、改めて気が付く。そのことにならなければ、これが、真の信心と言うことにならないのです。どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと、神様が言うておられるのは、その事なのだから、ね。
ですから、その神様の願いが、いうならば、私共も、いうならば切実な願いなのですから、願いと願いが一致する。そこに、なるほど、これをもって、真の信心とするとおいう事になるわけです。神様の願いがです、また、私共の願いが、一緒に成就していこうという願い。ね。現在、繁盛しております。現在健康であります、ね。家庭も、おかげで円満でいきよりますというだけでしょうが。ね。この、五つの願いに徹するという、真の信心をもってです、ね。家族中のものが、勢を揃えて、ここのところに、焦点を置いて信心の稽古を、いよいよ、させていただき、願っていくならばです。そのおかげの現れてくることもさることながらね。その徳が受けられる。八千円の借金払いをしてやるぞと言うのじゃなくて、八百俵の徳を授けるぞと仰る。その徳の受けられる信心です、現在合楽で言っているのは。ね。この信心がです、今年もまた、もう、ここに、幾時間で暮れようとしておりますけれども、この願いが、来年にまた、持ち越されることだろう。そして、その信心が、いよいよ、ね。例えば、寒修行が、四日からですか、五日から。ね。五日からの、いわば、寒修行に、もうそれこそ、新たな祈りをです。教会あげて、させていただこうという前にね。一つ、それを、お互いが、その気になっておかなければ、意味がないでしょう。ね。
これはね、今、合楽の教会内のことを、皆さんが、あの、本当に見てくださったり、聞いてくださったりしたら、本当に、すさまじいなぁという事になってくるです。ね。いうなら、まぁ、私一家の、例えばほんなら、そういう信心であってもです。そういう印が見えておるのでございますから、これが、いうなら、合楽を中心に、合楽の信奉者の家族全部が、勢を揃えて、おかげを頂いてまいりましたらですね。そういう、おかげを頂きたいというのでなく、そういうお徳を受けたいと、ね。石橋先生じゃないですけれども、神様が下さるというのであるから。本気で頂き漏らす事のないようなと、発奮された様な信心が、今こそ、合楽の信奉者一同の上にです。願いが、そういう願いがかけられておる時だと思うのです。皆さん、よくよく考えてみて、ね。一つ、本気での、その信心が出来ますようなおかげを頂いて、ね。まぁ、ここのところを合楽も、ここのところに、いうならば、進ませて頂いたという事。ここに、合楽の信心が、また、一段と、新たなゴヒレイを頂くことであろうと言う。下さろうと言うのであるから、頂こうという気になっての信心を目指させて頂く事。そして、これを、来年に、新たな、また、祈り願いとして、持ち続けて、いよいよ、真の信心を本当に身に付けたい。そして、おかげじゃない、その徳を受けたいと思うのです。ね。
どうぞ、もうこの頃はもう、親先生が、そのことばっかり言いよるけん、耳にたこの出来たごと思いなさるけれどもです。これは、どうでも、皆さんが一人ひとりが本当に分られる時までは、これは、恐らく、言い続けなければならない。それは、頼んででも、私は、皆さんに言わなければならない、ね。皆さんが、おかげを頂かれるためにも、ね。いわば、合楽教会がおかげを頂くことのためにも、それは、合楽教会が、おかげを頂くという事は、ね。教団とか、道とかと言う意味ではありません。ね。本当に、世界総氏子が、助かっていく。真実、和賀心時代を作っていくことのための、そういう、大きな願い、そういう、おかげに繋がることのためにです。私共が、ここのところの信心を、先ずは、頂かなければならんのです。合楽にご縁を頂いておる方達が、全部、ね。そういう一つの、意気込みでね、信心を頂いていきたい。
今日のところでは、本当に、頂いてまいりました、数々のおかげ、または、お祝詞にも申し上げておられましたように、ね。それこそ、知ってのご無礼、知らずでのご無礼、ね。それを思わせていただいておりますと、もう、限りないほどに、御詫び、お礼を申し上げなければおられない。そういうお祭りが今日のお祭りでございました。同時に、私は、思うのですけれども、明日の元旦祭の前夜祭のような意味合いも含めてのお祭りでございます。明日の元旦祭に、いよいよです。そこのところが、新たな事として、本当に、今年こそは、ね。いわゆる、家族、勢を揃えて、お日参りが出来るようなおかげを頂きたい。何とか工夫をしたい。そして、これは、実を言うたら、見やすい事なんです。皆さんが、仕事をなさっておられるとが、第二、従になれば、皆さんの場合は、仕事のほうが主になっておりますから、難しゅうなるんです。信心は、どこまでも、信心が主で無からなければいけません。仕事は従。それが、ほんとの信心生活なんです。信心の中に生活があるのですから。そういう、例えば、心の切り替えが、もう、こう出来ますとね。もう、すっきりするほど、みやすいことなんです。ね。けれども、なかなか、そこんところがね。やはり、願いもしなければならない。または、お繰り合わせも頂かなければ出来んのです。ね。ですから、どうぞ、この辺のところを、皆さんが本当に、行とされて、ね。おかげを頂いていただきたいと思うのでございます。もう、今年も、いよいよ、あと二時間あまりで、新しい年になります、ね。そういう意味で、どうぞ、生き生きとした、勢いのあるお正月を迎えていただきたいと思います。おかげ頂きまして、有難うございます。